2009年6月5日金曜日

道徳的社会主義とは

(1)道徳的社会主義と社会契約 

閑人さん。根気よくつきあっていただいてありがとうございます。いずれの疑問も根本的な問題を含んでいるので、わかりやすく説明するのは難しいです。しかし真理は単純でわかりやすさが求められますので努力します。

 大約まとめていただいたように、私の主張する社会主義は、社会(国家・政府・公共)にすべておまかせするのではなく、社会的自覚にもとづく「道徳的社会主義」です。これはユートピアでも単なる理想(空想)でもありません。この地球上で、すべての人類が平和で幸福な生存を維持していくために、必要な(necessary)目標であり条件なのです。 現代の人類は、私益や国益を越えた全人類的課題──すなわち環境問題・資源エネルギー問題等々に取り組まなければなりません。自己の利益だけを追求しておれば(個人主義)、「神の見えざる手」(アダム・スミス)が働いて社会の調和が保たれ、福祉も向上するという時代は終わったのです。

 私の言う「社会的自覚」とは、隣人を同胞として尊重すること(ここでは「愛や慈悲」という感性的な言葉はあえて用いませんが)であり、家族はもちろん地域や国家社会だけでなく全人類的社会の一員としての自覚、さらに根源的には生命の代表としての人類の自覚です。 かつてこのような自覚は、少数の天才的な宗教家や指導者が、過酷な犠牲的精神をふるって我々に警告し、すぐれた生存の指針(教義)として民衆を平安と至福に導くものでした。しかし現代のような科学的知識の普及した時代は、知的感性的努力(自己陶冶)は必要だとしても、特定の人間が超能力を発揮し、神秘的な儀式や呪文で人々を教導することはできませんし、その必要はありません。

 もし現代の若者(大衆)の多くが、自己中心的で刹那的な人生観(生き方)しか持てないとすれば、それは心ならずも資本主義社会に適応しようとしているのであって、彼らを責めることはできません。この社会は基本的に、欲望を拡大し浪費(競争原理・拡大再生産・生活向上)を奨励することによって成立しています。エコロジーやリサイクルの精神がかなり普及しているとはいうものの、この社会に安住している立場の人々は繁栄を謳歌し、弱者へのまなざしは冷ややかです。「格差があって何が悪い」「金儲けをしたくないのですか」「ニートは自己責任だ」等々。

 なるほど、格差や不平等は自然的な実在であり、それ自体が悪いとは言えません。問題は格差の大きさであり、それを拡大再生産し、金儲け自体を自己目的化し、人々の金銭欲(生活向上心とは異なる)をあおり立て(競わせ)、敗者を蔑視するような人間性を再生産する社会システムにあります。
 資本主義のシステムのもとで、人類的な諸問題を解決できると考える人々や、現状に安住したい(している)人々は、市場レベル(ビジネス)での工夫(二酸化炭素排出権取引など)や科学技術の進歩(CO2回収貯留、新エネルギー等々)が、現代の危機を救えるかのように主張しています。しかし両極の温暖化やアルプス・ヒマラヤなどの氷河の溶解の状況等を見れば、地球環境は加速度的な悪化を示しています。今や時間はないし、資本主義的な市場システムでの解決も望めないでしょう。      http://www.yasuienv.net/index.html

(2)道徳的社会主義と社会 

 では、私の言う道徳的な社会主義的市場システムはどうでしょうか。まず中央統制的な経済は、歴史の示すとおり人間性を否定した悲惨な結果をもたらします。資本主義も修正され、いわゆる市場の失敗は政策的ルールで規制されています。市場における創意工夫や自由な商品交換(取引)は、健全な社会存続の必要条件です。なのに今更、なぜ社会主義なのでしょうか。資本主義成立から繁栄期の、資本家によるあからさまな支配がなくなり、独占の禁止や労働法制、財政・金融政策や福祉政策によって、社会主義的な制度も導入され、社会主義などもう古い、というのが大方の見方でしょう。

 しかし問題は、経済活動のインセンティブ(動機・誘因──道徳の領域)をどう考えるかということです。資本主義的インセンティブは、利己的な収入と財産、人間への不信と管理(支配)という、人間の自然ではあるが偏った感情・欲望を基本においています。資本主義の問題点の多くは修正されているとはいうものの、格差は拡大・人心は荒廃、企業不正は後を絶たず、労働者は使い棄てられ、弱者へのしわ寄せは強まっています。このような状態で社会的自覚や環境問題など考えられるでしょうか。(利潤追求のための競争原理の問題点については他所<マルクス主義批判>の項で述べています。)

 社会主義的インセンティブは、生活向上のための協働と連帯にとどまらず、社会的自覚と精神的な価値を重視します。労働やビジネスを自己実現の手段とみなし、利己的利益追求よりも社会的連帯をめざし、権力による強制に依存しないからそれが可能なのです。

 「競争の強制法則」(マルクス)なくして技術革新や効率的経営、経済成長は可能なのか、と問われれば、我々は、市場における競争や利己心を否定する必要はないし、創意工夫や民主的討議を重視しながら、なによりも連帯と精神的価値を重んじる社会を創るという目的を持つから可能であると答えます。市場での利己的自覚を刺激するのではなく、社会的自覚と責任ある行動の奨励が「道徳的社会主義」の眼目なのです。

(3)道徳的社会主義と社会契約

  さて次に「社会契約と社会主義」についての説明です。近代の社会契約説(ホッブス、ロック、ルソー)は、現代の憲法(constitution)規定に実現していますが、その原則は基本的人権の実現と国家権力の民主主義的運用にあります。社会契約説によって、私有財産と自由な経済活動を保障する資本主義経済が成立する(正当化される)のです。しかし自由な経済活動すなわち私的利益の追求は、必ずしも公正平等な交換関係によって成立するのではありません。飽くなき利潤の追求は不平等を拡大再生産し、弱肉強食と社会的無責任は恐慌と帝国主義戦争をもたらし、労働者と植民地の犠牲を強いるものでした。

 その間、民主主義の進展によって資本主義経済のしくみを修正し、競争の制限と社会福祉、平和の実現のために、憲法に生存権と公共の福祉、戦争放棄を定めた日本のような憲法が成立しました。しかし国家はあくまで国民の利害の調整役で、個人の利益を優先しながら、福祉政策を安全弁として、経済成長と強者の論理を貫くしくみになっています。

 しかし近代の社会契約説の問題点(限界)は、法的(言語的)契約の限界を、根本的なところで認識していないことにあります。ルソーは、一般意志に基づく社会契約を、国家成立の神聖絶対な条件と考え、契約の限界を過小評価しました。社会関係において契約は、国家を正当化する社会契約だけではありません。日常の経済活動も私的公的契約(民法・商法・税法等々)によって規制され運営されています。そして社会契約によって保護される商品交換は、市民間の「合意(約束convention F)」が成立すれば、それが不等価交換であっても法的正義であるとされます。

 しかし一般的に契約(社会契約、個別契約)は、契約の抽象(言語)性と当事者の置かれた状況の違いによって、多様な解釈が生じ争いのもとともなります。私の考える社会主義は、単に多数決によって上から権力的に私有制を制限し、交換的正義を実現しようとするものではなく、不断の「合意」を前提にした社会契約によって、自覚的に実現しようとするものです。また契約は、その抽象性のためつねに更新され、検証され、契約に伴う事実は公開されて評価されなければなりません。なぜなら契約の内容の解釈は主観的なので、つねに学習と討議と教育によって、確認されなければなりません。言葉の約束はつねに危ういものだからです

 社会主義は必ずしも人間の感性的性質(欲求、本性)に基づいたものではありません。社会的自覚は、高度な知的理性的(言語的)認識能力を必要とし、また自己利益だけでなく他者の存在と利益を配慮しなければなりません。社会主義は必要なものであっても、誰にでもその意義が理解できるとは限りません。日常の生活に追われている庶民・大衆にとっては、目先にある刹那の享楽(欲求の充足)が人生の生き甲斐の源です。だからこそ社会主義(社会的な自覚)のために、継続的な契約行為が必要なのです。

 とても長くなりましたが、十分な説明ではありません。さらに説得力のある論にしたいと思っております。御意見ありがとうございました。少しはわかりやすいと思いますが、どうでしょうか。



 

2008年8月29日金曜日

新しい社会契約を結ぼう


 新しい社会契約と社会主義

 「利潤のためという動機は、資本家同士の競争と共に、資本の蓄積と使用に不安定をもたらし、不況が深刻化することになる。制限のない競争は労働の巨大な浪費と、既に述べたような個々人の社会的意識の麻痺をもたらしている。 人々の社会的意識の麻痺は、資本主義の一番の害悪だと私は思う。われわれの全教育システムは、この害を被っている。過度に競争的な態度が学生に叩き込まれ、学生はその将来のキャリアの準備として、欲深い成功を崇拝するように訓練される。 私は、このような深刻な害を取り除くためには一つしか道はないと確信している。すなわち社会主義経済と社会の目標に向けた教育システムの確立である。」(アルバート・アインシュタイン『何故社会主義か』「科学・社会・人間」94号2005)        
  (全文: http://www.geocities.jp/chikushijiro2002/historical/whysocialism.html

 マルクス的社会主義は,唯物史観や剰余価値説などすでに批判したように,独断と偏見にもとづいており科学の名に値しません。「社会主義」自体は,人間の選択可能な一つの価値判断です。社会主義は科学的でなければなりませんが,価値判断である以上は,決して科学ではないのです。社会主義は一つの理想です。人類にとって実現されるべき理想です。それは人類共通の価値である人権(human rights―人間の正義)と社会的公正の思想から必然的に帰結する理想です。
 しかし近代における人権は,個人(とりわけブルジョア)の利己心から生じ,平等は形式的なものにすぎませんでした。資本主義は,自由競争と労働者を犠牲にした飽くなき利潤の追求によって発展しました。そこに多くの社会問題や欧米列強(日本も参加)による世界植民地支配が引き起こされ,経済的不平等は拡大しました。これは形を変えて現在も続いています。そして社会問題を解決するために,労働者を主体にして経済的平等と人間の解放を求める社会主義運動が起こされたのです。

 今や有限な地球にあって市場の行き過ぎを統制するための理念は,弱肉強食の競争原理ではありえません。人類的な課題を解決するために,諸個人の人間的自覚と社会的連帯が求められています。社会主義の理念(イデオロギー)は,種々の形態や異なる主張をもちますが,これらの課題を人類の社会的連帯によって解決するために,将来においても有効性をもっています。
 社会主義は,「科学的法則」として独善的に決定され、また独裁的な指導者によって与えられるのではなく,多くの人々の英知を集めた人類共存のための「実現すべき理想」とされなければなりません。社会主義とは,社会正義を実現する運動であり,人間性に根ざす道徳的社会の実現を目ざす運動なのです。そしてこの事業は,理想を理想として自覚すること,すなわち西洋的な理想(思想)が,人間の認識や価値判断の結果であるにもかかわらず,あたかも神(または自然法則)から与えられた絶対的真理であるかのような思考様式を克服することから出発しなければならないのです。

 新しい社会契約は、西洋近代の合理主義的思想が生み出したような、人間に先天的に備わり、(神ないし天・自然によって)与えられたものとして、既定のものとしての人権(human rights)や、カントの考えるような道徳的法則に基づく社会契約、または歴史の必然から革命的に訪れる理想社会なのではなく、人間の社会的自覚に基づく社会契約となるでしょう。また多数決によって定められる法(契約)は、人間の主体的自覚と参加によって成立するものでなければなりません。
 意見の違いや利害の対立は、「公正と社会正義」を基準として公開の議論によって調整されねばなりません。しかし意見の違いや利害の対立は不可避であり、全員合意の約束が成立するとは限りません。ロールズ(アメリカの政治哲学者)は、この場合の「正義」を、格差原理──最も恵まれた条件が許されるのは、最も恵まれない人の利益にならねばならない──に求めました。ただこの原理は格差の程度や契約(交換)の不平等な条件への調整原理がありません。(最低生活が保障されれば、格差の上限はない。しかし、格差が平均的所得の十倍を超えれば、人間の能力や幸運の差異を考慮しても、正義の原則を越えるとみなすべきではないか。)

 相互不信、相互の無理解が不必要な摩擦と不信を生む。独断と独裁は最も避けなければならない。人間の知識や判断能力には限界があるからである。今日の新自由主義的経済学の功利主義と福祉国家の理念には主体的参加の哲学が欠如している。その名称にこだわる必要はないが、社会主義は社会的自覚と参加、そして社会的公正と正義を哲学としてもつがゆえに、未来においても存在意義をもつのである。



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